萎縮しない大人
昨日の続きに続いてみよう。
かっこいい大人ってなんだろう、と自分に問いかけてみる。
それはかっこわるくない大人だ。
大人に限らずかっこわるい人はかっこわるい。見た目ではなく、やりかた、生き方、だろうか。かっこわるいというのは、ずるい、とか、せこい、というイメージと重なる。スクラップティーチャーで山田涼介にやりこめられる先生がかっこわるい大人なんだろう。たぶん。
じゃあ、つくしさん(筑紫哲哉)にあってスクラップティーチャーの先生にないものとはなんであろうか。と、飛躍した問題提起をしてみる。
・・・・。
いや、これはいくらなんでも無理がありすぎる。第一私はスクラップティーチャーをまともに見ていない。
つくしさんの言葉に、「少数意見を怖れるな」というのがある。少数意見を発言すること、少数意見を存在させること、少数であれ少数意見をなくさないこと。たくさんの少数意見を表に出すことによって、社会に自由の風を絶やさないようにしよう、というような文脈だったような(そうでないような)。
自由の風とは停滞しない、萎縮しない空気だ。
萎縮する大人は、ちょっとかっこわるい。それがその大人にとってしかたのないものだとしても、悲しくなってしまう。
萎縮しない大人が増えれば良い。萎縮する必要があまりなければいい。そういう風潮があらゆる場所にあればよい。
「通路の真ん中で議論をしていて通行の妨げになっている人がいました。議論をするときは会議する場所で行ってください」なんて通達が出ると残念に思う。
たとえば道端で自由に話をしてはいけない街の、政治的な弾圧を思い起こしてしまう。人の美学はそれぞれだから、ある面ではそれで正しいのだとあきらめられる。でもそれで気の弱い大人たちを委縮させて自由な議論の機会をうばってしまったとしたら、と思うと、ただ少し残念だ。
私としては、道の真ん中で、大きな声と身振り手振りで、ちょっと通行の妨げになりながら、楽しく議論していてほしい。そういう人もいれば、邪魔だなあと思って眉をしかめる人もいて、なんとなくいろんな人がいる集合体であってほしい。
少数意見でも正しい方向、きらりと光る何かを示すものには価値がある。そういうのが表に出る機会を失わせているばかりになると、あまりかっこいい集合体ではなくなりそうだ。


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